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ジャッジの無知はディベーターの主張を成立させる (2) [ディベート]

前回の続きです。


ディベートの試合において、よく陥りやすい間違いというものがあります。具体例は後でいろいろ紹介しますが、例えば「逆も成立すると思ってしまう」といった場合がそうです。

ジャッジがそういう事例を知っていると、そういう局面になっても適切に判断できます。しかし、ジャッジがそれを知らないと、ディベーターと同じ判断ミスをしてしまったり、相手チームからの反論が理解できないといったことがありえます。

今回は、そういった例をいくつかに分類して紹介しようと思います。とはいっても、あまり厳密に分類しているわけではないので、それぞれのグループには重複があったりします。あくまでも、今までに見たことがある事例を書き残した程度のものと思ってください。

なお、例によって、AD は adnantage(利益)、DA は disadvantage(不利益)の略です。

逆は必ずしも真ならず


ディベーターが陥りやすい間違いのトップは、これだと思っています。例えば、「X のときは Y が起きる」というカードを読んだだけで、その逆の「Y が起きているときは X である」とか、その裏である「X でないときは Y は起きない」といったことも証明したと誤解してしまう現象です。

ケースでは、内因性(inherency)と解決性(solvency)といった形式で、両者をそれぞれ証明するようになっている場合が多いので、一方の証明が欠けているとすぐに気づくのですが、形式の縛りがない他のイシューでは、気がつきにくいところでこの間違いをしていることがあります。

例えば DA において、こんな例があります。原発廃止の論題のとき(この例は2000年)に、「原発を廃止すると、京都議定書で定められた二酸化炭素の削減目標を達成できなくなる」という DA がありました。そこで読んでいたカードは、確か「二酸化炭素の削減目標を達成するためには、原子力発電所の増設が必要である」といった内容でした。

このカードでは DA の証明にはなっていないのですが、それが分かるでしょうか?

2000年当時(そして今も)、二酸化炭素の削減目標は達成できていないので、原発を廃止したら達成がいっそう困難になるのはほぼ明らかです。だから、プランの有無で差を出すために否定側が証明しなければならないのは、「原発を増設することで、二酸化炭素の削減目標が達成できる」という点です。たとえるなら、「原発を増設する」というプランの解決性の部分です。

一方、前述の「目標達成のためには、原発の増設が必要である」というカードは、「必要である」の部分が必要条件を表わしているとすると、「原発を増設なければ、目標は達成できない」という内容と同じです。(「不可欠である」や「しなければならない」といった表現も、「必要である」と同じです。) つまり、その逆(正しくは裏)である「原発を増設すると、目標が達成できる」については、何も述べていないのです。先ほどのプランのたとえで言うと、内因性はあっても解決性は示せていない状態です。

こういう現象は、プランを採った方が採らないときよりも現状維持に近くなるような論題でよく発生します。具体的には、核燃料再処理の放棄(2008年後期)やダム建設中止(1994年後期)などです。2011年後期の原発廃止の論題も、もちろんその例です。こういう論題での DA というのは、「プランがなければ将来はいいことがあったのに、プランはそれを台無しに……」みたいな感じになることが多いのですが、それは「プランが悪いことを引き起こす」という、よくある DA とは証明の仕方が異なってきます。ディベーターがその点を理解していないと、前述のような間違いをしてしまうことがあります。

ジャッジがそういったことを知っていれば、このような状況になってときに「証明になっていない」ということに気づけますし、また、相手チームからそういう指摘があったときに、それが反論としてどういう意味を持っているかが分かります。

十把ひとからげ


『十把一絡げ』からの脱却を」で書いたことと被りますが、今回の道州制の論題でも良く出てきそうなので、ここで改めて書きます。

今回の論題では、道や州が独自の財源を確保できるかとか、あるいはもっと漠然と、各道州が「発展する」か否かが議論されると予想されます。しかし、道州の全部が全部「発展する」のも「失敗する」のも、地域ごとの実情を無視した「十把ひとからげ」な主張に見えます。

つまり、ジャッジとしては、このように肯定側と否定側とで意見が対立したときには、「どちらか一方のみが正しい」と考えるのではなく、「地域によってどちらもあり得る」と考えるべきだというのが、ここでの私の主張です。

なお余談ですが、「地域によってどちらもあり得る」という考えに立った場合、否定側の「失敗する」という主張がどんな働きをしているかで、否定側の勝ちやすさが変わります。「失敗する」という主張を PMA(あるいは解決性への反論)として出している場合、それ単独で否定側が勝つには「全部の道州で失敗する」ということを示す必要があります。一方で、その主張を DA として出した場合は、「失敗する」道州から発生する DA と「成功する」道州から発生する AD を上回ればよいので、「全部の道州で失敗する」と示すよりかは楽になります。

プランの実現可能性


「実現可能性」とは practicality の訳語であり、この用語自体の説明については「“Practicality”と“Workability”――その1」を参照してください。おそらく今回の論題でも出てくる議論だと予想されるので、ここで改めて書きます。

この「プランの実現可能性」という概念は、ディベートのコミュニティーによって扱いが大きく異なります。あるコミュニティーでは、ディベーターにもジャッジにもこの概念がほとんど知られていません。別のコミュニティーでは、ケース内に実現可能性の証明がなかったら相手チームに鋭く指摘されます。JDA 大会は、ディベーターもジャッジも様々なコミュニティーから参加しているのが特徴なので、試合中に「プランの実現可能性」が議論される場合があり得ます。

JDA 大会で実現可能性が議論になった例(ただしカウンタープランの実現可能性)を挙げると、2010年秋大会の決勝があります。この試合では否定側が確か「海外での代理出産を禁止する」というカウンタープランを出したのですが、それに対して肯定側が「そのカウンタープランの中身が実現する証明がない」という指摘をしていました。肯定側は「プランによって日本でも代理出産が行なわれるようになる」という証明をしてあったので、この指摘はカウンタープランに対してのみ当てはまるものでした。

今回の論題であれば、「道州制は本当に実現できるか」、もっと具体的には、「道や州という行政単位ができて、道や州ごとに首都(に相当するもの)ができて、議会や政府(に相当するもの)ができて……」といったことが本当に実現するのかという点について、肯定側が何も証明していなかったら、否定側がその点を指摘してくるといった場合があり得ると予想します。

言い換えると、ジャッジはそういう場合に備えて、実現可能性について何らかの見解を持っておく必要があると思います。以下の3点くらいは、あらかじめ見解を持っておいた方が、試合中にそういう場面になっても慌てなくて済むと考えています。

  1. 肯定側が自分のプランの実現可能性をまったく証明していなかった場合に、どう扱うか。
  2. 否定側がその点を指摘した場合に、どう扱うか。
  3. 同様に、カウンタープランの実現可能性についてはどう考えるか。


事実と認識とのギャップ


「事実はどうか」という話と「人々はそれをどのように認識しているか」という話とは、本来は独立であって両立するものです。しかし、ディベートの試合では両者を混同している場合が良くあります。厳密にいうと、「事実はどうか」よりも、「将来の状況はどうか」という話と認識の話との混同なのですが、問題の根っこは同じです。

例えば、インフレターゲットの論題(2006年後期)に、以下のような議論が出ていました。

肯定側

インフレターゲットを採用すると、人々は将来インフレになると期待する。

否定側

インフレにはならない。


肯定側は人々の「認識」の話をしているのに対し、否定側は「将来の状況」の話をしています。この2つは両立する(現実と異なる認識を持つ、つまり「誤解する」ということ)ので、否定側の主張は直接の反論にはなっていません。仮に、「人々はやがて、現実とギャップに気づいて認識を改める」みたいな話も出せば、反論として機能したでしょうが、その試合ではそんな話は出てきませんでした。

似たような例を挙げます。私が公式の試合で初めてジャッジしたとき、そのときのケースは「製造物責任(PL)法を制定する」というもので、それに対して否定側は以下のような DA を、さらに肯定側は以下のような「反論」をしていました。

否定側の DA の先頭

投資家は、PL法によって訴訟が増えると考えており、訴訟に対処した行動をとるようになる。

肯定側の反論

訴訟は増えない。


これも、「認識」の話に対して「将来の状況」で反論したつもりになっている例です。しかし否定側は、それに対して「訴訟が増える」という再反論をしてしまい、結局「訴訟は増えるか否か」という議論が最後まで続きました。この DA の最初のリンクは、投資家が「訴訟が増える」と思いさえすれば繋がるのであり、実際に訴訟が増えるかどうかは無関係のはずなのですが……。

この試合は英語ディベートだったため、当初私は「こういう混同が起こるのは、外国語のディベートだと細かなところまで頭が回らなくなるからなのだろう」と思っていたのですが、日本語ディベートでも同じような現象を何度も目にしました。つまりこの現象も、言語に関わらずディベーターが陥りやすい間違いの一つなのでしょう。


インパクトと解決性とが不整合


これは、論理的には「逆は必ずしも真ならず」の一種なのですが、頻度が高いので別途説明します。

前回の「飢饉と生産性」で書いたことを、ケースの構成の面から考察してみます。ケースは、「ある国に農業技術の指導をする」というものだとします。

内因性

a) ある国の農業技術は未熟なため、生産性が低い。(証明あり)

b) そのため、飢饉が発生している。(証明あり)

重要性

飢饉は重大な問題だ。

解決性

a) プランによって農業技術が向上すると生産性が上がる。(証明あり)


上記のような構成では、内因性(inherency)と解決性(solvency)とが対応していません。非常に厳しいジャッジなら、「重要性として挙げているのは飢饉だけなのに、解決性では飢饉が解決することを示していない。だから、AD は全く証明されていない」と判断する可能性だってあります。

だから、肯定側がその点を分かっている場合は、以下のように、とにかく形式上は解決性を内因性に対応させようとします。

解決性

a) プランによって農業技術が向上すると生産性が上がる。(証明あり)

b) (追加)生産性が上がると飢饉も解決する。(口頭のみ)



ところがこうすることで、皮肉な現象が発生することがあります。人間というのは、存在していないものについて「存在していない」とはなかなか気づかないものなのです。つまり、解決性を a で留めているときは AD の証明が不足していることに気づかないのに、b を口頭で述べたらかえって証明不足に気づいてしまうという現象です。

しかし、ジャッジの態度としては、解決性の b がないと証明不足に気づかずに判定が甘くなるというのは、一貫性が欠けているように思います。そうなるのを防ぐためにも、ジャッジはケースにおいて、1) 内因性と解決性とが対応しているか、2) 特に重要性として挙げた項目は解決しているか、といった点をチェックするようにすることをお勧めします。

ここで、ちょっとしたノウハウを書いておきます。先ほどの飢饉の例では、「生産性が低い」こと自体を重要性(インパクト)にできれば、解決性ときちんと対応します。「それでは大きな AD にならないのでは?」と思うかもしれませんが、ここが重要なノウハウで、先ほどは内因性の b で使っていたカードを重要性の証明として使います。
つまり、ケースを以下のような構成にします。

内因性

ある国の農業技術は未熟なため、生産性が低い。(証明あり)

重要性

生産性が低いことは、重大な問題だ。なぜなら、それが飢饉の原因となるからである。(証明あり)

解決性

プランによって農業技術が向上すると生産性が上がる。(証明あり)


これなら、「生産性が低い/上がる」という点について内因性と解決性とが対応しますし、AD を大きく見せることもできています。

もっと一般化して書くと、プランがないときに「A が起こり、B が起こり、C が起こる。C は重大」みたいな何段にもなったシナリオがあるのに、解決性として「プランがあると A を防ぐ」といったものしか見つからない場合は、A 自体をインパクトとし、B 以降は A の重要さを示すカードとして使えばよいということです。


同じ用語でも中身は別


肯定側と否定側とで同じ用語を使っているため、一見すると議論が噛み合っている。しかし、その用語の意味をよく吟味すると、両者で異なる意味で使っており、実は噛み合っていない――みたいな現象もたびたび発生します。そんな例をいくつか紹介します。

一つは、かつて英語ディベートのとある試合で見かけた“education”(教育)という用語です。そのときのケースは確か「未成年が薬物を乱用するのを防ぐために、“education”を行なう」といったもので、AD の一つとして「“education”の効果により、注射針の回し射ちがなくなり、HIV に感染することがなくなる」というものがありました。これに対して否定側は、“education”と HIV というキーワードから「性教育をする」というプランだと思ったらしく、「“education”をすると、かえって HIV の感染者が増える」(いわゆる「寝た子を起こす」論)という「反論」をしていました。しかし、どちらのチームも“education”としか表現しなかったため、議論が噛み合っていないことにお互い気がつかず、反論の応酬が最後まで続きました。

次の例は、ダム建設中止(1994年後期)で見かけた「地震」に関する議論です。当時のケースで、「ダムを建設すると、その周囲で地震が発生する」という主張は、比較的よく出ていました。それに対して、「小さな地震が何度も発生すると、地下のエネルギーが解放され、大きな地震の発生を防ぐ」というターンアラウンド(T/A)が出ていました。この例も、一見すると、「地震」というキーワードについて議論が噛み合っているように見えます。

しかし、それぞれの「地震」の発生要因について考えると、同じ「地震」でも別物であることが分かります。ダムによって発生する地震というのは、地層の浅いところで発生するものなのですが、否定側の言う地震は、大陸プレート同士が重なり合うところで発生するようなずっと深いところのものです。(正直言うと、この辺は記憶も知識もあやふやです。) つまり、発生する要因が異なるので、新たなダムを建設したことで地震が起きても、大陸プレートの深いところで発生する地震が防げるわけではありません。

このように、用語が同じでも中身が別ということに気づくと、実は反論が成立していないことに気づく場合もあります。

なお、上の二つの例がそうだというわけではないのですが、用語が同じなのに中身が別という局面に会ったときにジャッジとして気に留めておいた方が良いと思うことがあります。それは、反論する側が使用したカードの引用範囲は適切かという点です。もしかしたら、試合中に引用した範囲の外を読むと、その用語が別物ものを指しているのが分かるかも知れません。つまり、あえてそこを省略することで、あたかも反論が成立しているかのように見せかけている可能性もあるということです。

役割の逆転


ディベートの試合を何度も見ていると、肯定側・否定側それぞれに「こうするものだ」という形式というか固定観念がどうしても出来上がってしまいます。しかし、場合によってはその逆をしなければならないときもあります。そんな例をいくつか紹介します。

一つ目は、ダム建設中止の論題(1994年後期)であった例です。(「またこの論題か」と思うかもしれませんが、実際いろいろ興味深い論題だったのです。) とあるモデルでは、DA において以下のような議論が行なわれていました。

否定側の DA

ダム建設を中止すると、水不足が起きる。

肯定側の反論

水不足は今でも起きている。

否定側の再反論

今の水不足は深刻ではない。


形だけに注目すると、肯定側は「DA の原因はプランに固有ではない」(いわゆる“not unique”)という反論であり、否定側はさらにそれに反論しています。しかし、よく考えると、肯定側の「反論」がかえって DA のシナリオを補強しています。それが分かるでしょうか?

プランは「今後はダムを建設しない」というものであり既存のダムは今後も残るので、そんなプランに当てはまるようにするために、この DA は以下のような構図を持っています。

現在の状況

ある地域では、ダムがないために水不足が発生している。

プランがあると(=ダムの建設を中止すると)

ダムがない状態が続き、水不足が続く。

プランがないと(=ダムが建設されると)

ダムが建設され、水不足が解決する。


つまり、肯定側が反論のつもりで出した「水不足は今でも起きている」という主張は、実は DA の「現在の状況」の部分と全く同じ、つまり DA のシナリオの一部なのです。だから、否定側は肯定側の「反論」を「その通り」と受け入れればそれでよく、「反論」に「再反論」すると、かえって DA のシナリオを否定してしまいます。

こういう状況になったときに、ジャッジは形式ではなく内容を見て、「逆転」に気づく必要があると思っています。

「ダム建設中止」の論題は、「逆転」が発生しているのにディベータが気づいていないという例でした。それに対し、ディベーターの方から意図的に「逆転」を仕掛けてくる場合もあります。以下はそんな例(と私が分類している例)です。

  • AD も DA もゼロのときには、否定側ではなく肯定側の勝ちとすべきだ。(「現在の政策を中止すべきである」という論題の場合は、比較的主張しやすい。)
  • 「代理出産を認める」というプランを採ることで、代理出産の件数自体は変わらない。(と主張することで、代理出産そのものに由来する DA を無効化する。)
  • 「出生前診断と認める」というプランを採ることで、野放図に行なわれるのをかえって抑制する。(と主張することで、出生前診断そのものに由来する DA を無効化どころか AD に変えてしまう。)
  • 「外国人労働者の雇用を認める」というプランを採っても、日本にやってくる外国人労働者の数は変わらない。(と主張することで、外国人労働者の人数が増えることに由来する DA を無効化する。)

ここに挙げた例の中には、「逆転」というよりは、単に論点をずらしているだけのものもありますが、いずれにしても狙いは相手チームの混乱を誘って勝ちやすくすることなので、発想自体は共通だと思います。こういう状況になっても、ジャッジ自身は混乱せずに適切に判定してくれることを、(少なくとも「逆転」を仕掛けた側からは)期待されています。

こういう議論がありうるということをジャッジが知っていれば、ディベーターがこういう「逆転」を仕掛けてきても、慌てずに「お、仕掛けてきたな。では相手チームはどう対処するかお手並み拝見」と冷静に対処することができます。

おわりに


ディベートの試合で陥りやすい間違はいろいろありますが、きりがないので一旦ここまでとします。

「十把ひとからげ」や「事実と認識とのギャップ」などは、おそらく毎試合出てくると予想していますが、ここで書いたことが役に立つことを期待して、今回の文章を終わりにします。



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