JDA秋大会でのジャッジ(2) [ディベート]
すっかり間が開きましたが、JDA大会の話の続きです。
前回、「判断基準」について「異文化」を感じることが頻繁にあったと書きましたが、その例についてです。
いくつかの試合で、「判断基準」と称して以下のような主張が出てきており、しかも最後の反駁までそれを伸ばし続けていたのですが、これらは勝敗にどう結びつけてよいのか、結構悩みました。
- 「日本人が海外(特に発展途上国)で代理母に依頼するのを放任しているのは、許されない」
- 「代理母の容認は他の政策と一貫してないから行なうべきでない」
- 「危険を与える可能性があるから代理母は認められない」
他にも出ていたような気がしますが、共通しているのは、いきなり「~行なうべきでない」「~許されない」という主張をしているという点です。
つまり、通常の試合では、AD と DA とを比較し、AD の方が大きければ「すべきである」、逆なら「すべきでない」と判定するわけですが、上記の主張は、そのプロセスを省略しているように見えるのです。
では、これらの「判断基準」を出したディベーターがAD と DA とを比較を放棄しているのかというと、そうでもなくて、最後の反駁でどちらの話もしていたりします。(例えば、否定側第二反駁において、ケースの側では AD とターンアラウンドとを比較しているのに、DA の側では「判断基準」を伸ばして「この政策は認められない」と主張している、など)
このような「判断基準」をディベーターが最終反駁まで残した場合、どうやって勝敗に反映させればよいのか結構悩みます。反映のさせ方は以下のようにいろいろ考えられるのですが、いずれにしても説明不足に思えるからです。
- あくまでも、「AD と DA との比較」に落とし込む。例えば、「他の政策と一貫してないから採るべきでない」という主張は、「一貫性を乱すのは悪いことだ」という DA だと考える。
→ そうならそういう説明が必要。
- 「AD と DA との比較」という考え方を否定し、新しいディベートパラダイムを出していると考える。例えば、「他の政策と一貫してないから採るべきでない」という「判断基準」は、他の政策との一貫性のみで「すべき」か否かを判定するというパラダイムを出しているのだと考える。
→ そうだとしたら、「AD と DA との比較」を放棄した上で、この試合でジャッジが一貫性のみ判定しなければならない理由が必要。(いわゆる「パラダイムシフト」)
- 「すべき」か否かを判定するために、単純な「AD と DA との比較」の他に、一貫性や国家の役割なども考慮する新しいパラダイムを出していると考える。
→ この場合、「AD と DA との比較」を否定する必要はないが、この試合でジャッジがそのパラダイムを考慮しなければならない理由が必要。
- パラダイムを一つに絞っているわけではなく、上記の 1 と 2 のどちらに転んでも肯定側/否定側の勝ちという主張だと考える。
→ この場合、ジャッジが混乱しないための説明が必要。例えば否定側なら、「肯定側のプランは他の政策との一貫性に反している時点で、AD や DA とは無関係に否定側の勝ちが確定。もしジャッジがこの考えを受け入れられなくても、AD と DA の比較でも否定側が勝っている」と主張する。(もちろん、なぜ一貫性のみで判定しなければならないかの理由も必要。)
結局、「AD と DA との比較」を最終反駁まで伸ばしている以上は 2 は無理がありますし、1 のように AD や DA に落とし込みようにも説明不足ですし、新しいパラダイムと考えようにもそんな話は出てきていません。というわけで、「判断基準」は無視し、それ以外の議論で勝敗を決める……という、ディベーターにとっては不本意な判定をせざるを得ませんでした。
ジャッジやコーチによっては、このような「判断基準」(直接「~すべきでない」とか「~許されない」と主張するもの)を出すことを推奨している人もいると聞きます。このような「判断基準」をどのように勝敗に反映させているのか、教えていただけると幸いです。(批判しているわけではなくて、純粋に質問です。)
ちなみに、上記の 1~3 については、過去(といっても 1990年代なのですが)に実例があります。次回にでも紹介します。
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